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君を夏の日に例えようか

「魔王コント」とフリーメイソンに関する比較考察

<序論>

魔王コントは2017年4月12日〜4月16日まで下北沢本多劇場にて上演された演劇作品である。脚本、演出は家城啓之で2010年に家城氏が組んでいたお笑いコンビ「カリカ」で上演されたコントショーの再演となる。今回、主演に矢崎広を迎え、石田明小林且弥小林顕作など豪華キャストによって演じられ、内容は初演から大幅なアレンジを加えられている。

本作品は「世界を守るのはいつだって悪なんだ」をテーマに、必要悪と人間愛に揺れ動く世界をコントという形式をとりながら描いている。私は本作に登場する魔族の概念がフリーメイソンの定義と似ていると感じた。

そこで本論文ではフリーメイソンの慣習と魔王コントの世界の関連性を述べ、後半にはモーツァルトフリーメイソンに贈ったとされる歌劇「魔笛」と魔王コントの比較考察を論じていく。

なお、本論文の根拠については全てインターネットで調べた内容になるため、真偽に一切の責任を追わないこととする。

 

<本論>

フリーメイソンとは16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社である。「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念を持ち、活動している。元は石工団体だったため、三角形で作ったコンパスと定規がシンボルとなっている。また、神の全能の目を意味するプロピデンスの目も、シンボルとして用いられていた。(Wikipediaより抜粋)

 

本来の活動としては、「全人類の兄弟愛という理想の実現」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的にする友愛団体であり、ボーイスカウトロータリークラブライオンズクラブ等のような社会奉仕団体なのだが、相反するフリーメイソン陰謀論が囁かれているのも、また事実である。

この世に起こる天災・人災はすべてフリーメイソンが関わっている。彼らは様々な企業、団体に潜り込み、世界征服をねらっている…といった都市伝説である。

 

なぜ、友愛結社なのに世界征服を狙っていると噂されるのか。真偽のほどはともかく、ここに魔王コントにおける魔族とフリーメイソンにおける必要悪の共通性を見出した。

どちらも平和な世の中にするための道具として天災、人災を使用しているという点である。一見すると真逆のことをしているようだが、魔王コントの作中で、魔王はこのように述べている。

「ボクが魔王になってなかったらもっと多くの人間が死んでたよ。魔王がいない時の人間は戦争ばっかりしてたんだよ。人間が人間を殺すための兵器作りにしのぎを削り、毎日毎日人間同士で殺しあったんだよ。」

 

人間は共通の敵を作ると一気に団結力や協調性が高まる生物と考えられる。その性質を利用し、人類皆兄弟の理想実現のために動いているという点において、フリーメイソンと魔族は共通している。

この点が、私が2者を比較しようと考えた最も大きな理由である。

 

さらにフリーメイソンの慣習と魔王コント作中における共通点を見てみよう。

前述した通り、フリーメイソンは三角形とプロピデンスの目をシンボルとしている。魔王コントのポスターも3人が三角形を作り、3人の目に「魔」の文字が浮かび上がっており、「3」という数字と目が印象的な仕上がりになっている。

フリーメイソンにおける3という数字はとても大きな力を持っている。(3のルール)

例えば、彼らの重要なシンボルであるピラミッドはトライアングルであるし、彼らの位階は下位が3階級、上位を含めた全体としては33階級(スコティッシュ・ライトの場合)である。彼らは〈直角定規〉と〈コンパス〉と〈聖なる法典〉を合わせて「3つの大いなる光」と呼ぶ。下位の3階級にはそれぞれ違った "3つ一組" の象徴的な〈作業道具〉が与えられる。また、そもそも「自由・平等・博愛」も「3」なのである。(3つのルールとフリーメイソンより抜粋)

 

 

魔王コントのメインの登場人物が3人であるという点においても共通していると考えられる。

 

また、魔王コントにおいて色欲の虎が

「(主人公サルトが"えっ、神様っているんですか?"と質問したことに対して)そういうところがマジで人間やばいよね。散々魔王に殺されてビビってるくせに、魔王の存在は信じてるのに神様信じないとかマジで絶滅した方が地球の為なんだけど。」

と述べている場面がある。

フリーメイソンに入会するためには入会資格として何らかの真摯な信仰を要求しており、無神論者は入会することができない。

主人公サルトは冒頭は無神論者だったが、その後タイガーバーム神と実際に会ったため、神を信じるようになる。そこから入会資格を得たため、魔族となれたのではないか。

この点も共通性を持つものと考えられる。

 

続いて、モーツァルト作曲「魔笛」と魔王コントの関連性についても述べていこう。

歌劇「魔笛K.620」は1791年にヴォルフガング・アマデウスモーツァルトにより作曲された。この歌劇はモーツァルトの知人であり、フリーメイソン会員のシカネーダーのために作曲されたと言われている。

本作にはフリーメイソンのさまざまなシンボルや教義に基づく歌詞や設定が用いられていることも特徴で、とりわけ各所に「3」を象徴的に使っているのが目立つ。序曲の最初や中間部で鳴り響く和音(同じフレーズが3回演奏される)は、フリーメイソンの儀式で使われるもので、劇中ザラストロの神殿内の場面でも再現されている。2人の作者がメンバーとしてフリーメイソンの精神をオペラ化したとも、当時皇帝から圧迫を受けつつあったフリーメイソンの宣伝であったなど、教団との関わりを重視する指摘があり、今日の演出にも影響を与えている。(Wikipediaより抜粋)

 

 

魔王コントの作中でもモーツァルトは頻繁に使われており、特に後期の作品である魔笛とレクイエムが印象的に使用されていた。このような経緯で比較対象として選出した。

 

まず、登場人物として魔笛ではヒーローポジションであるタミーノと魔王コントで主役のサルトを比較したい。

どちらも共通する点としては、登場時は情けなく、頼りないキャラクターだが、後半に進むにつれ成長し、最終的には団体を代表するような人物に成長するというところだ。

タミーノは登場時、大蛇に襲われる場面からのスタートだが、サルトも友人を見捨てて死なせてしまう場面から始まる。

しかし、後半にかけて、タミーノはパミーナ姫と結ばれるために教団の神官ザラストロの試練を乗り越え、サルトは魔族のリーダーとして君臨する。

1人の青年の成長を描いている点が共通している点の1つに挙げられるだろう。

 

また、魔王ランディに関していえばザラストロと狂言回し的な存在であるパパゲーノが合体したようなキャラクターであるといえよう。

言うまでもなく、ザラストロとランディに関しては互いに所属する団体の頂点に立っている点があげられる。

パパゲーノに関しての共通点は、ランディ首吊り場面で使用されている音楽がパパゲーノ首吊りの場面に使われている音楽と同じという点だろう。

この音楽はレクイエムでも「lacrimosa(涙の日)」のテーマとして使われている。そしてモーツァルトはこの曲を書いている途中で、病に伏し逝去している。

一見すると魔笛でのパパゲーノはパパゲーナの登場により自殺をやめたように思われがちだが、実は試練を乗り越えられなかったため、地獄に落ちているという通説がある。このメロディをランディに使用することに関しては家城氏は非常に意識をしていたのではないかと考えられる。

 

大まかなストーリーとして共通している点としては、1幕と2幕で善と悪がひっくり返る、この点につきるだろう。

どちらも1幕では悪だと思われていた団体が2幕で実は全く逆で、正義と善のために働いていたのだと主人公が属して気づいていく。

フリーメイソンの象徴として、光と陰や善と悪など相対するものが挙げられる。

モーツァルトはそれを意識し、魔笛では昼と夜や男と女などで表現しているが、魔王コントにおいてはストーリーの善と悪以外に相対するものは見受けられない。

 

<結論>

魔王コントとフリーメイソンにおける共通性をあげてみたが、関連する部分は多数あるものの、確実に決め手となる点は見つけられなかった。真実は家城氏の中にしかないのだ。

ただ、偶然にも近しくなったとしても、両者が平和を望み行動していることに間違いはない。

必要悪を使わずに、どうしたら平和な世界になれるのか。これは私たち人間の考えなければならない最大のテーマなのかもしれない。